その前に、ぼくのことを知らない方のために、ちょっとだけ今現在の話をさせて頂きます。
今のぼくは、タイ古式マッサージのマスターと呼ばれ、今までに全国36都市200回の講習会を開催し、参加者は1500名を超えました。47都道府県全ての県に行くこともできました。
YouTubのタイマッサージの専門チャンネルの登録者数は、1万人を超え、総再生回数も960万回を超えています。またタイ古式マッサージのDVDも12本発売しています。またタイマッサージ店2店舗を経営し、さらには厚生省認可の職業訓練校の先生としてがんばっています。
しかし、ここに至るまでには色々なことがありました。人並みに悩み、苦しみ、ここまで歩んできた気がします。ただツイテイタこともいっぱいありました。こんなことがあったんだな~って共感し、人生の不思議を感じてもらえればうれしいです。僕が伝えたいのは、「誰の人生にも面白いシナリオが用意されている」ということです。では、よろしくお願いします。
ぼくは小さい時から「夢は何ですか?」と聞かれることが一番嫌だった。
何が好きなのかすら分からなかった。
毎日野球の練習に明け暮れた。
プロ野球選手を目指していたわけではないのに
何がやりたいのか分からず、目的もなくただ野球をしてた。
目指していた甲子園にも行けず、
希望の大学にも行けず、浪人した。
浪人して受験しても翌年、希望大学にも行けなった。
おまけに入った大学では留年も経験した。
ぼくの願い、目標が叶ったことなど一度もなかった。
挫折の連続だった。

大学半ばからは、運動もやめた。
パチンコ、麻雀に明け暮れた。
朝から朝まで24時間麻雀にどっぷりはまった。

周りの同級生たちの中では、間違いなく落ちこぼれだった。
大卒の仲間より2年も、高卒の仲間よりは6年も社会人になるのが遅かった。
社会の役に立たない、ダメな人間にも思えてきた。
でも、このままで終わりたくないともがいていた。
「いつかきっと。俺はもっとできるはず!」
そんな心は持ち続けていた。
学校の先生?消防士?
希望は全て夢破れ、ぼくに内定をくれたたった一つのその会社に入社した。
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入社してこんな仕事だと知った。気づいた時には遅かった。(笑)
ここでやるしかなかった。
高所恐怖症だが、ここでやるしかもう道はなかった。(今でも高いところは怖い。ただ慣れただけ)笑
大卒の鳶職人なんかどこにもいなかった。
しかしふたを開けてみると、男臭い現場は体育会系の延長線上にあるような現場で
性に合っていて、めちゃくちゃ楽しい世界だった。
街の中でスーツに身を包み、活躍していく仲間たちと会わずに
落ちこぼれのレッテルを感じない隔離された山の中の環境もよかった。
ここでたくさんのことを学んだ。
10年以上たった時、さらにこう思いました。もし消防士になっていたら、今のぼくはいないと。安定にしがみつき飛び出せなかっただろうなって。
社会人になり6年が過ぎていた。
仕事を辞めたいと思ったことなど一度もなかった。
そんな時、自分の心が叫び始めた。
『ストーンヘンジに行きたい』と。
お金は?仕事は?どうする?
ひらすら自問自答していた。
「世の中には無数に会社はある。しかし、自分の心はたった一つ」
「自分の心がやりたい!と雄たけびを上げるのは、長い人生の中でも数回しかない。
その心の叫びに従うか?心を閉ざすか?」
心は決まった!!
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憧れの魂の遊び人「パンタ笛吹」さんと真弓香さんと共にストーンヘンジへ。
好きなことして自由に生きているこの二人は、ぼくにとってスーパースターだった。
この二人と共に旅をすることができたことで、
ぼくもこんなに自由に生きていけるかもしれないという可能性を感じさせてくれた。
★二人の共著
「マジカルインカへの旅」「アガスティアの葉の秘密」など
一緒に旅している気分でワクワクドキドキ読んだ最高の本。
ぼくは、パンタさんからシンクロニシティという言葉と
そんな奇跡的なことが日常に起こることを学んだ。

インドは行きたい国ではなかった。
ただこれからの未来をゆっくり考える時間が欲しかった。
日本にいたらすぐにお金が底をつく。
物価の安い国でゆっくり人生について考えたかった。
自分は何がしたいのか?何が好きなのか?
そんなことをゆっくり考えたかった。
ゆっくり考えれば答えが分かるわけではない、と今では分かるけど
ある時、運命が静かに動き始めた。
インドで3か月くらい経った頃「オイルマッサージ」を学ぶことになった。
これを仕事にしようなんて考えもしなかった。
ただ人生のどこかで役立つかもしれない、それくらいの思いで学ぶことにした。
人生の新しい方向性が差し出された瞬間だった。

「癒し」「リラクゼーション」「アロマ」そんな言葉すらまだ市民権を得ていなかった。
だから、そんなお店すらまだ存在していなくて、それが仕事になるなんて考えられなかった。
でもぼくには、それしかなかった。
インドで学んだ「オイルマッサージ」、それしかなかった。
でも不思議と、失敗するかも?という不安は一切浮かんでこなかった。
確証のない自信だけがあった。(笑)
なんかうまくいくような気がする!(笑)
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この写真の場所に引っ越したのは、お店を始めて2年後のこと。
最初は、住居兼のアパートでやっていた。
この新しいお店は、お金をかけないように流木、廃材とかで全て手作り。
カウンターもイスもランプも棚も全て自分で作った。
毎朝6時から流木拾いに海に出掛けていた。
自分がこんなもの作れることに自分でビックリした。(笑)
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流木アーティストに方向転換しようかと思っていたほど。(笑)
手作りランプとか買ってくれる人がいた。

プロの大工さんもぼくのアートを見るのが楽しみで
よく遊びに来てくれてた。
「自分たちには発想できない作品ばかりだ」って。
理由は、「自分たちなら全部捨ててしまうような材料だから」だって。(笑)
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くつ箱 | シングルハンガー | ポスト |
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ランプ | 傘立て | 噴水 |
まだまだ服を脱いで受けるオイルマッサージは
なかなか受け入れてもらえる世の中ではなかった。
だから「服を着たまま受けられる整体的なマッサージ」
そんなものを漠然と求めていた。
そんな矢先、雑誌の片隅に見つけた「タイ式マッサージ」の記事。
ぼくの心は踊った。「これだ!」
「インド式」に「タイ式」この2枚看板面白いかも。
1か月後、ぼくはタイに飛んだ。

しかし、タイに着いてから気づいた。
ぼくは、タイ式マッサージ受けたこともなければ、見たこともない。
大丈夫か?(笑)

この出会いがぼくの人生を変えた。
ホントに分かったのは、それから数年後のことだけど。(笑)
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ぼくの運命を大きく変えてくれたのは、
このオーシャンドームからの一本の電話だったと思う。
何の実績も何もないぼくに、ここへ出店要請が来た。
どうやって出店するの?なぜぼくにそんな話が?
スタッフが一人もいないのに、出店なんかできるはずもない。
(それまでスタッフを一人も雇ったこともなかった)
【こんな状況から起こった奇跡】
しかしその後、信じられない奇跡が舞い降りた(笑)。募集もしてないのに、この状況を打破すべく、強力助っ人が突然現れた。彼女は、何の前触れもなく突然現れた。「ここで雇ってもらえませんか?」
彼女は、横浜からお嫁さんで宮崎に来たばかり。仕事を探していた。彼女は、関東でイベント出店経験も持っていた。「オーシャンドームで一緒にやれる?」
信じられない展開だった。その後も次から次に人が集まった。
ここに出店したことにより、その後、「宮崎空港」、そして宮崎中心街の「百貨店」からお声をかけて頂けたのは、当時宮崎一の観光名所「オーシャンドーム」にお店を出したという信用からだった。
なぜ、ぼくに声がかかったのか?またその後、突然現れた彼女。この2つの奇跡がなければ、今のぼくはない。
タイにはまり、タイ古式マッサージの勉強、雑貨の仕入れに
タイによく行っていた。そして、大量の雑貨を仕入れて来ていた。
手探りの雑貨仕入れだったが、何度もやっていくうちにそのノウハウは分かった。
そんな矢先、宮崎空港にアジアン雑貨のお店を作る話が持ち上がった。
理由は、初めての韓国国際線の就航に合わせて、
アジア友好の空港にしていこうというコンセプトからだった。
県内にある韓国、インド、ベトナム、バリ島、タイの雑貨を扱うお店5店舗が集結して
「アジアンストリート」という雑貨屋さんが宮崎空港にオープンした。
これに加われたことは幸運だった。
偶然という名のたくさんの奇跡が隠れていた。

【ここでも起こった奇跡】
宮崎空港というのは宮崎の玄関口。宮崎最大のマーケット。どこのお店もそこへの出店を狙っている。よって大きな会社しか入り込めない。ぼくみたいな個人商店が入ることは、万が一にもありえないことだった。ではなぜ、その奇跡が起こったか?
それはまず、お店が空港のそばにあったことが一つ。それで空港関係者のお客さまの出入りが多かったこと。それで白羽の矢が立った。
しかし、個人商店。会議では余裕で却下されるはずだったが、シーガイヤ・オーシャンドームで成功させているという信用が最後の決め手になったようだ。
がんばっていれば誰かが見てくれている。そんな奇跡が起こることを知った。

ぼくは、空港のそばにあるお店を
もっと田舎の自然の中に作りたいと思って、ずっとそう思っていた。
今からは「癒しの時代」。きっとみんな自然の中での癒しを求めてくる。
そんな矢先、宮崎中心地にある百貨店「ボンベルタ橘」から今度は話を頂いた。
全く考えてもいなかった逆の展開。
田舎ではなく、宮崎一番の街の中。
そして、こう思って移転を決めた。
「自分には全くなかった逆転の発想。だからこそ面白い!
入りたくても誰でもは入れない。そこから話が来た。
挑戦してみよう。田舎に行くのはその後でも遅くない」。

【さらに奇跡は続く】
これも後日談だが、ここのテナントには当店「サマディー」に声がかかる前に実は、違うリラクゼーションのお店がほとんど確定していた。あと契約書を交わすだけになっていたらしい。
ところが、最終の重役会議で「そんなお店より私はもっといいお店知っている」と言って「サマディー」を推薦して下さった人がいて、急きょ当店に白羽の矢が立ったことを後で知った。その方は、サマディーのお客さまだった。
百貨店も当然、個人商店は問題外の領域。しかし、ここでもオーシャンドームでの成功が最後は決め手になったようだ。自分の知らないところで応援して下さる人がいる。そんな人たちのお陰でやってこれた。その感謝の気持ちを忘れずに精進したい。

同時に、YouTubeデビュー

2010年の1月、念願だったDVDの発売を開始した。
同時に宣伝のために、YouTubeに動画をアップして
何らかの反応が起こっていくことを期待した。
反応が起こり始めたのは、それから1年が経った頃からだった。
言うまでもないが、このYouTubeがぼくの人生を大幅に変えていってくれた。
この「人気店の技」の動画を撮ったのは、その2年半前の2007年の夏のことだった。
動画編集、DVD編集を覚えるのに2年の歳月がかかった。
動画撮影を行った時には、まだこの世に「YouTube」は存在してなかった。
しかしちょうど、動画編集ができるようになった頃
「YouTube」というインターネット動画の世界が現れた。
【ここにも後日談がある】
YouTubeに頻繁に動画をアップして、DVDも順調に売れ始めて数年が経った頃、机の奥から1通の手紙が出てきた。
宛名は「自分」。差出人も「自分」。6年前に自分宛てに自分で書いた手紙だった。6年後の日付まであと2か月足らずの日付が書いてあった。
その日付まで待てずに、手紙を開けて読んでみた。「何を書いていたんだろう?」
手紙にはこう書かれていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日初めて、自分の施術の流れをビデオで撮ったよ。
カメラを固定して、撮影したよ。
これがどうなるか分かんないけど
とりあえず思いつくことをやっていこうと思ってる。
でも今日は、
100分の一歩を踏み出した気がする。
・・・・(中略)・・・・・・
がんばれ!!〇〇〇
6年後には笑っていると思うから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その時の情景が、思い出されてきた。読みながら、こみあげてくる涙を抑えきれなかった。そうそれは、この「人気店の技」の動画を初めて撮った日だった。(撮影は3日間ほど行った気がする)その日にぼくは、6年後の自分へ手紙を書いていたのだ。
その頃のぼくは、きっともがき苦しんでた。間違いなく苦しんでた。これから何をすればいいのか分からずもがいてた。思いつくことをとりあえずやっていこうと。それで、自分の施術動画を撮ってみようと。それがどうなるか分かんないけど、とりあえず思いつくことは何でもやってみようと。その思いの一環として、自分へ手紙を書いたんだと思う。未来で何かが花開いてくれることを信じて。
過去の自分にこう言ってあげたい。「大丈夫だよ。すべてうまくいくから。今ぼくは心の底から笑ってるから」と。そして、「ありがとう」と。

厚生省認可の職業訓練校。
ハローワークで募集、審査してこの学校への入校が認められる。
ここでタイ古式マッサージをメインとした「ボディケア」を教えている。


本を出したい願いが叶った。
「ストーンヘンジに行きたい」その思いだけで
会社を辞め、冒険の旅に出掛けた。
たまたまインドで出会った「オイルマッサージ」で
お店を始めるまでの実話を本にしました。
やりたいことがあるけど、一歩が踏み出せない人に贈りたい。
東京・蒲田の会場で東京での初めての講習会。

東京は大きかった。
こんな大きい都市でつぶされるかもしれないと思った。
でもやるしかなかった。
でないと後悔することが分かっていたから。
当たって砕けろ!
初めての東京。
でも、温かい人たちが待っていてくれた。

感謝!
ここでも起こったプチミラクル!
この少人数の中、参加者同士で、東京と群馬に離れ離れになっていた幼馴染との再会があった(笑)。お互い会場に着いてから知った。ご縁とは恐ろしいものである。世の中は狭い(笑)。
ぼくの講習会は、人と人の出会いを大切にする。みんな参加前は、どんな人が参加するのかとても心配している。でも、終わった後みんな同じことを言う。「ホントいい人ばかりですね」って。縁ある人ばかりが集まる。だから、いい人ばかりになる。
宮崎市の繁華街の一等地に
2号店「アジアンヒーリングDhyan」をオープンしました。

タイ・バンコクで初のタイマッサージの講習会開催。
マッサージ店で部屋を貸し切って
講習会を行い、夜はみんなで人気マッサージ店へ
マッサージを受けに行ったり
バンコクを満喫しました。

ずっと頭の中にタイ古式マッサージのストレッチ技だけで
メニューを作るという構想がありました。
思いつく限りのストレッチ技を出して、
その中から厳選した100個のストレッチ技を組み合わせて作りました。

講習会の様子をDVDに収めたいという思いがありました。
でも、募集しても人は集まるだろうか?
そんな恐れがありました。でも、やらなかったら後悔する。
勇気を出して募集したら、全国からたくさんの仲間たちが集まってくれました。

東京で4回、福岡で3回、愛媛、神戸の計9回の講習会開催。
福岡、愛媛、神戸は初めての開催でした。
どこに行っても温かく迎えて頂き、ありがたかったです。
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実はここ、とてもご縁のある場所だった。ぼくがインドへ出発しようとしていた1週間ほど前に、ある人のセミナーをここで受けた。その人は、日本中を自由に飛び回りながら仕事をしている人だった。こんな素敵な生き方もあるのか?と憧れを抱かせてくれる人だった。その人がインドに行こうとしている自分にこう言ってくれた。「楽しい未来が待ってるぞ!楽しんで来い!」と。その言葉がどれほど励みになったことか。その同じ会場で、ぼくも講習会を行っている。頂いた縁を「円」にするために、この会場が待ってくれていた気がした。
東京6回、福岡6回、北海道、名古屋、京都、宝塚、愛媛、大分、宮崎、沖縄。
一年間、講習会で全国を飛び回りました。
北海道から沖縄まで日本縦断。全国10都市20回の講習会を行いました。
やりたかったことがまた一つ叶いました。
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福岡では、毎月講習会を実現。
毎月、県外からもたくさんの参加者が来てくれました。
京都も宝塚も名古屋も愛媛も広島も大好きな町になりました。
ありがたい一年となりました。
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今年はどんな面白いことが待っているのでしょう?