人生の分かれ道「湾岸戦争から10年②」

 
その事件とは、形式だけの健康診断の時起こった。

とどこおりなく、何事もなく検査は終了したのに、
何を血迷ったのか、私は先生に向かってこう言ってしまった。

 
「私、腰が悪いはずなんですが、
レントゲンにはちゃんと写ってました?」・・・・と。

 
な、な、なんてことを口走ってしまったのだ。
見つかってもいない自分の弱点を、自ら暴露してしまうとは・・・・。
そんな傷が自分にあったことすら、忘れていたというのに・・・。

 

前年から顔見知りになっていた付き添いの消防士まで
「余計なことを言うな!」と止めに入った。

 
だが、時すでに遅し。
それを聞いた先生は、
至急レントゲンの撮り直しを命じ、
精密検査が行われた。

 
取り返しのつかない結末が待っているとは、
この時の私は知るはずもなかった。

 

レントゲンの結果。
先生の第一声が全てを物語っている。

 
「こんな体で、運動をやってきたはずがない。
この腰では、運動はおろか、走ることも出来ないはずだ。
君は嘘を付いていたね」

 
そして私の問診票に
「運動不能」の烙印を押すのが見えた。

 

・・・・・・・・・・なんのことだ?
この医者は何を言っているのだ???
中学校の時、痛めた腰で運動が不能になったはずだとぉ?
大学まで体育会系だったのは、嘘だというのか?
このスポーツマンのこの俺が”運動不能”?

 

頭が真っ白になった。

何を言ったのかすら思い出せない。
結局、この再検査のためだけで、私の夢は無惨にも打ち砕かれた。
医者の勝手な推測だけのために・・・・・。

 

合否の発表後、
私は知人を通して、異議申し立てをした。
なぜなら
一次試験の結果を見れば、
私の運動能力の高さは一目瞭然だっただろうし、
「半年間、給料要らないから、
消防学校に置いてくれ、そしたら分かる」
と懇願した。

 

だが、私の夢が叶う日が来ることはなかった。
医者の「誤診」は認められた。

 

だが、『合否を覆すことは、前例もないことだからできない』
これが答えだった。

 

真っ暗な日々は続いた。俺は今まで何の為に・・・・・。

 

友人達も言葉を失った。
私が如何に消防士が適職かを知っていただけに・・・・。

 

「宮崎の人口もこれで、10人は減るね」
(私が助けるはずだった人々が・・・・)
負け惜しみの発言にも、その悔しさがにじみ出ていた。

 

 

だが一人の友人の言葉が、絶望の暗闇に微かに染み渡った。

 

「10年後には、今の価値観とは何かが変わってるかもしらんよ。
世の中もがらりと変わって、今ある会社もあるとも限らんし・・・・・。
10年経ったら分からんよ」

 

黙ってうなずいたが、この時心の中でこう思った。
「そうかもしれない。10年後は分からんね。
消防士にならずに良かったと、思える日が、
もしかしたら、もしかしたら、来るかもしれない。
10人とはいわず、それ以上の人々の為になる
仕事があるんかもしれんな~。
そうだね、10年後は分からんね。
10年後には、笑ってやる」
・・・・・・と。

 

 

この後、就職することになるのだが、
全ては筋書き通りの展開だったのか?
消防士の試験前、私は3,4社の内定をもらっていた。

 

しかし、どうせ俺は消防士になるのだから・・・・と、
全ての会社に内定取り消しの電話を入れた。

 

その中には、先日破綻した「シーガイア」などもあった。
ところが思惑とは裏腹に、私は消防士にはなれなかった。

 

それで、「あちゃ~。内定全部断ってしまって、行くとこねーばい」
と途方に暮れてしまった。

 

「でも、俺を見る目のないこんな宮崎市なんか就職したくないしね~」
と思った時、
「あっ!そう言えば、
都城の会社に内定取り消しの電話するの忘れてた~」

 

捨てる神ありゃ、拾う神あり?

 

そしてどんな会社なのか、よく分からないままその会社に入社した。

気が付けば、
私は小指の太さの電線に股がり、仕事をしていた。

とび

そこは100m上空、お尻の一点に電線があるだけ・・・・。
両手、両足宙ぶらりん。
ヘマすれば、まっさかさま地上へ・・・という場所だった。

 

送電線建設工事が私の仕事になった。
レスキュー隊員顔負けのアクロバット綱渡り?
毎日が命がけのぶっつけ本番。

 

高い所は平気だったんですね?と
聞こえてきそうだが、
人並みに「高所恐怖症」でしたと、
付け加えときたい。

 

今でも高い所は恐い。
落ちたら死ぬんだから・・・・。
ただそれは、慣れただけに過ぎない。

 

向こうに見えるは、日本海。絶景かな。。。

 

 

どこに行こうとも、
私はこんな仕事をする運命だったんだな、と笑ってしまった。

 

聞こえもよく、世間的評価も高い消防士ではなく、
地味で泥臭く、学歴など全く関係なく、
超3K(キツイ、キタナイ?(コワイ!)、キケン)であり
自然の厳しさの中で、ど根性を鍛え上げられる仕事であった。
(雨の日。風の日は恐かった。)

 

あまりの厳しさに10人に1人しか残っていかない世界と言われている。

 

叩き上げの精神で生きてきた先輩方からは、
多大な財産「生きていく力」を頂いた。

 

こちらの方が、私のためには、何十倍も価値のある場所であり、
仕事だったと思うのに、
そう時間は掛からなかった。

 

自分の中にあった見栄、虚栄心を削ぎ落とすには、
もってこいの展開でもあった。
全ては『縁』という名の神様の仕業だったと言える。

 

だが、周りの友達より高給取りになった私を見て、
「良かったね、消防士落ちて・・・・」
という大馬鹿野郎の友達がいた。

 

ニコッとしただけで、あえて何も言わなかったが、
「そう思えるように、努力したんだよ」
と、心の中でにらみ返した。
自分で思えても、他人には言われたくない一言もある。

 

人は得てして、結果しか見てくれない。
そして人をうらやむことしか見えていない。
今までの人生では、こんな展開ばっかりだった。
(今でも・・・。)笑

 

「これしかない!」と進んでいく道では、
必ず扉が閉められる。苦汁をなめさせられる。
「これしかない」という執着をあざ笑うかのように、
崖っぷちから突き落とされる。

 

だが、痛みをこらえ、涙をふき立ち上がると、
そこは宝の山だったりする。
しょうがなく歩き出した道ほど、
キラキラ輝いていたりする。

 

そんな学びの中から、
「全ては順調!」という私の金言は生まれてきたと思う。
自らの言葉で、墓穴を掘ったお陰で現在がある。

 

だが「墓穴」と思っていたら、
そこは「金の発掘現場」へと変わろうとしている。
心の奥底、魂レベルの自分は、
消防士が自分の仕事でないことを知っていたのだろう。

 

そこで、土壇場の奇襲攻撃をしかけてきたに違いない。
信じられない言葉だったが、間違いなく自分が発したのだ。

 

 

その時、表面の自分は蒼ざめたが、
奥底の自分は、してやったりとニヤッとしたに違いない。

 

万が一、消防士になっていた自分を想像すると、
私は辞めることが出来ずに、
一生、安定にしがみつき、不安定な心のまま、
生きながらにして死んでいったに違いない。

 

今だから見えてくることもある。
不安定な中でこそ燃え上がる何かがある。
生きている喜びも湧き上がってくる。
生きるとは、そんなもんだろう。そんな気がしている。

 

そして今年ようやく、生まれ故郷である宮崎市に戻ってきた。
「消防士」という心の傷は癒えた。

 

もう遠い昔の話であり、
全ての出来事も今へと通じるステップだったと感謝に変わった。

 

そして来年、友達の言った10年後、
自分の心に誓った10年後を迎える。

 

心新たな気持ちで、10年目を迎えるとしよう。
そして「ここまでよく頑張ってきたな!」と自分を褒めてやりたい。
(そう書きながら、涙が込み上げてきてしまった。(x。x)゚゚゚)

 

だが、私のやるべきことは、10年前からすでに決まっている。
2002年、それは「腹の底から笑ってやること」。
感謝m(。-_-。)m

 

2001/12/30

 

PS. この話は書くつもりはなかった。
だが、「湾岸戦争から10年」というニュースのタイトルは、
心の中で響き続けていた。

 

そんなある朝、いつも自転車で通っている消防学校の前で、
消防士の朝礼を目撃した。
その時初めて、朝礼というものを目のあたりにした私は、
インスピレーションを得た。

 

この話は、自分の為ではなく、誰かの為になる。
そうか!書こう!!・・・・・と。
いつまでも納得できない出来事、不幸と思える現実はあるものです。

 

でも「いつかはきっと・・・・」
そう信じて生きていきたいものです。
その期待は決して裏切ることはありません。

 
秘訣を教えましょう。
それは
『自分の人生を信じること』

 
誰の人生も予定通りの
順調な流れの中にあると私は思うです。

 
今年もありがとうございました。m(。-_-。)m
来年もご一緒に、腹の底から笑える1年にしてやりましょう。
自分のために・・・・・・。\(^O^)/