人生の分かれ道「湾岸戦争から10年」

 
テレビから聞こえてきた
「湾岸戦争から10年」のニュースに、
私は釘付けになった。

 
あれから、10年経ったのか・・・・・・・・?
 
その言葉の響きは、
テレビのその報道とは別の場所へと
私を連れ去った。。。

 
私の身の回りは、こんなに変容したというのに、
世の中は何一つ変わっていないのか?
相変わらず戦争の世の中だ。
 

また10年後も戦争は起こるのか?
またアメリカが戦争をおっぱじめるのか?
その時はすでにアメリカは崩壊しているのか?

 
だが今までの10年と、
これからの10年は何かが違うはずだ。
そう信じたい。

 
1ヶ月後の自分の姿さえ想像できない私には、
何も分からない。

 
インドの聖者Osho(和尚)は言っている。

「世界中の男たちが、もう少し泣くことが出来たら、戦争は起こらない。
男たちの表現できない悲しみが、集合的無意識に蓄積され、
膨れ上がるそのネガティブ・エネルギーは、10年ごとに大爆発する。
それは攻撃的な悲しみの表現としての戦争となる。
10年ごとに繰り返される世界大戦の真意はそこにある」
・・・・・・・と。

 
正確な直訳にはなってないだろうが、
こんな感じだったと記憶している。

 

10年前、大学4年生だった私は、ある就職の為
の面接を受けていた。

 

「あなたは、”湾岸戦争”についてどう思いますか?」
と質問され、

 

「軍事産業が盛んなアメリカは、
戦争がしたくてたまらなかったんだと思います。
聖戦の名の元、理由をこじつけ、
戦争を始めたんだと思います」

 

その時の世の論評はどうだったのか忘れたが、
素直な自分の気持ちで答えた。

 

「湾岸戦争」という言葉の響きは、
この場面へと私をタイムスリップさせたのだ。

 

私にとっての「湾岸戦争」とは、
まさにこの面接の場面のことであり、
ここから私の10年は始まることとなる。

 

この時、私は”留年”すなわち大学5年生が決まっており、
翌年の就職試験の腕試しのためにと、
受験をしたつもりだったのに、運良く一次試験をパスし、
最終面接まで駒を進めていたのである。

 

その就職先とは、夢にまで見ていた「消防士」である。

来年受けても合格する保証はどこにもなかった私は、
大学を中退するつもりでいた。

 

面接官もそのあたりを突っ込んできたが、
「私は消防士になるために生まれてきました。
大学を卒業するためではありません」
と、かっこよく言ったが、

 

「今まで大学に行かせてくれた親の立場を、
お前は考えているのか?」と厳しく指摘され、

 

「卒業してから、また来年来なさい」と、
見事に撃沈してしまった。

 

それから翌年の消防士の試験まで
よく頑張ったと我ながら思う。

 

参考書、問題集を何度も、何度も真っ黒くなるまでやった。
真っ黒く見えなくなった文字を含め、
丸ごと参考書が頭の中に入るほどに・・・・・。

 

試験2ヶ月前になると、
神経がピリピリしてきて、
3時間も寝れない日が試験当日まで続いた。

 

夜中に目が覚め、
はやる気持ちを抑えるため、ランニングに出掛ける。
シャワーを浴び、勉強。間にまた走る。
腹筋・腕立て・懸垂・・・・・。
また勉強・・・・・・・。。。

 

年齢制限の上でも、ラストチャンスということもあり、
極限の状態で、頭も体も研ぎ澄まされていった。
世界タイトルマッチを控えたボクサーは
たぶんこんな心境なんだろうと、一人戦った。

 

恐くて震え出す自分が出てきた時には、
映画「ロッキー」を借りてきて
モチベーションを高め、またランニングに出掛けた。

ロッキー
「ロッキー」は10回以上。
「バックドラフト」(消防士の映画)は20回以上見た。

バックドラフト
その甲斐あり、前年の2倍以上の受験者数の中、
学力、体力の総合力で行われる一次試験を、
今度は正真正銘の実力で見事突破した。

 

面接でも、
前年とほぼ同じ顔ぶれのお偉いさんの前に座ると、
「よく来た。お前のことはよく覚えてる。1年間、お前を待ってたぞ!
素晴らしい成績だ。トップの成績だったよ。おめでとう」
と、ほとんど質問もされずに、
最高の賛辞ばかりを頂いた。

 

レスキュー隊員としての自分の未来像をほぼ手中に収めていた。
ところが運命とは、皮肉なものだ。
あんな事件が起ころうとは・・・・・・。

 

あんな事さえなければ、
私は今も人命救助に、日々活躍していたことだろう。

 

こんなエッセイを書くこともなかったに違いない。

 

だが今だから言える。
「全ては順調に動いている」
・・・・と。。。 (続)

 

2001/12/25